たかまさ’s ブログ

還暦親爺が勝手に書き綴る過激ブログ。ご意見無用!

共産中国が反日な訳

共産中国は清朝の正式な後継者ではない。

清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が退位した後は、辛亥革命の立役者・孫文が仮総統となった中華民国が誕生する。アジア最初の民主共和国だが、孫文支那全土の統一のため清朝の家臣だった袁世凱に総統の座を譲った。袁世凱は専制体制を強化して一時は新たな皇帝になろうとして内外の反発を買い、彼の死後12年間は統一政府のない空白が生まれ、国内は内乱状態になった。

孫文中国国民党を創建、これを継いだ蒋介石が国民政府を南京で樹立した。しかし汪兆銘らが離反し武漢に政府を打ち立てたため、国民政府は2分された。その頃中国共産党毛沢東はソ連の支援の下、中華ソビエト共和国臨時政府を河西省に樹立するまでになっていた。

蒋介石の後ろ盾はアメリカとイギリス及びドイツであった。武器や軍事物資の支援は膨大なものだった。蒋介石の国民政府は日清間の過去の条約無効を主張し、排日法令を数多く制定して日本人の利権を剥奪する行為に及んだ。そのため各地で朝鮮人を含む日本人への迫害が起きていた。

こうした国民政府の排斥活動を背景に柳条湖事件が起き満州事変へと拡大していく。日本軍はたった5日間で満州全土をその支配下に置いた。その後愛新覚羅溥儀を皇帝とする満州国を建国するに至る。

日本は汪兆銘政権を南京国民政府として承認し、盧溝橋事件に端を発した支那事変以後、反日戦闘を繰り返す共産ゲリラや国民政府軍との戦闘に引きずり込まれていった。

特に2度に渡る上海事変は一方的な国民政府軍の攻撃で日本のみならず海外各国への攻撃が行われた。第2次にはアメリカ製の爆撃機で空爆が行われ一般市民が犠牲になった。それまでは不拡大方針をとっていた日本政府も軍の派遣をやむなく行うことになった。

このような経緯で全面戦争に突入していった日華だったが、対英米戦争も抱えるようになった日本は結局敗戦し、支那大陸でも武装を解除した。

その後中華民国の国民政府は戦勝国として連合国と共に終戦処理をした。アメリカも日本を占領して日本改造政策を実行した。その間隙を突いて中国共産党がソ連の指示の下戦線拡大を図り、蒋介石の国民政府は台湾に逃げ込むことになった。そして中華人民共和国が誕生したのだ。

支那の歴史では時の政権は禅譲されなければ正当とは見なされない。禅譲とは平和裏に権力が委譲されることをいう。その反対が簒奪だ。力で権力を奪うことである。内乱のどさくさに紛れて力で権力を奪ったのが共産党の政権である。これでは正当性は皆無だ。もっとも過去の政権も簒奪ばかりだったので常に正当性を捏造してきた。

そこで毛沢東は正当性を捏造することにした。

支那事変以後の戦争を日中戦争と命名して、日本が支那大陸を侵略した戦争と位置づけたのだ。そして日本の侵略を食い止めたのが共産党軍だとしたのである。それが唯一の正当性になった。だから共産党政権の命綱が反日なのだ。

この捏造を日本の共産かぶれの学者や朝日を代表とする左翼マスコミが我が意を得たりとばかりに正当化し宣伝した。日本人は占領軍によって真実を隠蔽され、共産かぶれの日本人によって捏造を信じ込まされてきたのである。